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「自由の女神物語」
「やまとゆきはら」


「自由の女神物語」  シャピロ文  スカーリー絵  近藤純夫・訳  偕成社
やや古い本で、表紙画像がありませんでした。
図書館などで見つけてください。
アメリカの象徴ともいえる、自由の女神はフランスから贈られたものだということは、
知られていますが、なぜ、どうやって、誰がとなると、よく分かりませんでした。

この絵本は、自由の女神が贈られる経緯を詳しく、そして、職人たちの技術を
細かく描いています。
絵本は、大型版です。絵は素描ですので、モノクロです。

フランスの歴史家エドワール・ラ・ラブライエが、アメリカの賛美者で、
アメリカ独立戦争の時に、援軍を送ったのはフランスだけだったということを
記念して、アメリカに独立記念碑を贈ろうと、発案します。
すると、彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディは、その言葉に
強く揺さぶられます。
やがて、バルトルディが自由の女神の原型をつくり、それを職人たちが大きく
作るという計画が動き出すのです。

絵本では、最初になぜ自由の女神をアメリカに贈ることになったか、
実際、どのようにして資金を集め、作られたかなどの大きな流れを
説明します。そして、絵本の大半のページは、大きな自由の女神像を
どのように作っていったかを、詳しく説明しています。

このような、技術についての物語の絵本は、再販されていることが
少ないような気がします。この絵本は、自由の女神の作られていく過程が
とてもよく分かる本で、たくさんの人に見てもらいたいです。


オンライン書店ビーケーワン:やまとゆきはら 「やまとゆきはら」 関屋 敏隆・さく  福音館書店
白瀬のぶの南極探検の物語です。
「しらせ」と南極観測船の名前に残っている、探検家です。
南極探検が行われたのは、1910年のことです。およそ100年前です。

南極に行くのに、漁船に鉄板を貼った小さな帆船でした。「開南丸」といいます。
小さな船の為、南極でそりを引かせる予定だった馬ではなく、犬を使う事にします。
犬は、当時カラフトに住んでいたアイヌ人に、応援を頼みました。
その当時、カラフトは半分ロシア、半分日本の領土でした。
そして、山辺安之助(アイヌ名ヤヨマネク)花守信吉(同じくシシラトカ)の二人が
犬係として、加わりました。

一行を乗せた「開南丸」は、一度南極近くへ行きましたが、氷に閉ざされ、大陸まで
たどりつけませんでした。半年後の夏を待つことにした一行は、オーストラリアに着きますが、
犬が一匹を残して死に、資金もなくなります。
一度、日本に帰り資金を調達し、犬を連れて野村船長が戻るまで、探検隊の一行は、
オーストラリアで、小屋を建て待ちました。しかし、この時すでにスコット隊とアムンゼン隊は、
南極大陸にいました。

野村隊長が資金を作り戻ったのは、10月、犬が来たのは11月でした。犬はアイヌの橋村が
連れてきましたが、死を覚悟した山辺は橋村にお金を渡し、自分の無事を祈る為に、村人に
お酒を買い、神様に祈ってもらうように、託します。

11月19日、「開南丸」は出発しました。
南極で上陸した地点を「開南湾」と名づけます。犬ぞりで南極点を目指すのは、隊員の白瀬を
含む5人です。28頭の犬で2台のそりを引きました。
しかし、結局白瀬隊は、南極点につくことはできませんでした。また、南極点には、すでに
スコット隊とアムンゼン隊が到達していました。

この間の様子が細かく描かれ、大変な苦労をした末に、目的が達せられず、さぞ残念だった
ろうと偲ばれます。でも、犬に犠牲は出ましたが、隊員は皆無事に戻ります。スコット隊が
南極点に到達したものの、遭難死してしまったことを考えれば、引き返す判断が正しく行われた
ものと思います。
題名の「やまとゆきはら」とは白瀬隊が到達した大雪原を「大和雪原」と名づけたところから、
と思います。

絵本には、探検隊の後日談があります。
アイヌ人の山辺は、村に帰る前にアイヌ語研究者の金田一京助と「あいぬ物語」を書きます。
そして、白瀬は探検で作った借金をひとりで返すため、家、財産を売り払い、全国を映画や
講演で回り、23年掛かって返し終わります。その時70歳でした。白瀬は85歳昭和21年に
亡くなりました。この時の仏前には「カボチャ、茄子、乾しうどん一把」が、みかん箱に
供えられていたと、あります。

絵は、布地版画という型染めの技法を使ったものです。
版も大きく、その当時の苦労がよく分かる絵本です。
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