「情念」
『桃子』
『いぬねこかさがねがふち』
『桜の森の満開の下』


「桃子」 江国 香織・文  飯野 和好・絵 旬報社
このお話は、怖いです。人は怖いものです。愛は怖いものです。
人里はなれた寺に、「桃子」という7歳の少女が預けられます。
天降という若い19歳の僧侶が、その桃子の世話係りになりました。

桃子は、両親を亡くしおじ夫婦が預かっていたのですが、おじ夫婦の海外出張の間の
3ヶ月間だけ、お寺で暮らすことになっていました。誰にも心を開かない桃子は、なぜか、
この天隆だけには、よくなつき二人で時を過ごす事が多くなります。

しかし、この桃子は、天隆に虫などを酷い殺生をさせて楽しむという変わった子どもです。
寺の住職は、桃子に酷い事はしないように注意しますが、謝るのは天隆でした。
その後、二人は部屋にこもって過ごすようになりますが、やがて、互いが好きで
愛し合っているので、二人で山を下りて暮らしたいと言い出します。

住職は、天隆に二日間の行を言い渡し、それでも桃子と行きたかったらと、諭しました。
結局天隆は元の仕事にもどり、桃子もおじ夫妻の帰りを大人しく待ちました。

やがて、おじ夫妻が迎えに来ると、桃子はその場で鳥になり飛び立ちます。
そして、天隆の頭の上には、花が咲きました。桃子の鳥が戻ってきて、その花に包まれるように
住みつきます。

絵は、上手な子どもが描いたような感じで、その感じが7歳の桃子の幼さを感じさせます。
さらにその幼さの中に、怖さ、女の情念、男の儚さを表しているようです。


「いぬねこ かさねがふち」  舟崎 克彦・文 / 橋本 淳子・絵  文渓堂
表紙画像はありませんが、bk1にリンクしています。
鶴屋南北の歌舞伎を犬猫に置き換えて、絵本にしたものです。
ただし、私は『真景累ヶ淵』を良く知らないので、どのあたりが、この絵本に当たるのかまでは、
よく分かりませんでした。
『真景累ヶ淵』は、実話で茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸らしいと言われています。
親子3代に亘って子殺し、妻殺しが行われ、それを南北が歌舞伎に、円朝が落語にしたものです。

絵本は犬猫に置き換わっていますが、とても怖いです。
幽霊が出てくる怖いお話ではないのですが、人間の業(姿が犬猫であるに過ぎないので)の
怖さが、ひしひしと迫ってきます。明るい昼間に読むのをお勧めします。

簡単に内容を。
ねこのおみけが、大店の息子けんしろうに恋をして、いぬの子を産む約束で、晴れて夫婦に
なります。ところが、生まれてくる子は、ねこばかり。おみけは死産と偽って、子どもを
累ヶ淵に捨てました。4人目は犬だったにも拘らず、捨ててしまいます。それを見ていた
けんしろうがおみけを鎌で殺す、と言う物語です。

鎌が『真景累ヶ淵』でも、凶器として度々登場するようです。

橋本淳子の絵は、犬猫が登場人物ですが、違和感無く顔だけが動物です。
おみけが子を抱く姿、累ヶ淵に子を捨てる場面など、猫だからよけい怖いとも思えます。
おみけをねこ、けんしろうを犬にした理由がわかるような気がします。
犬猫が登場人物なんて、と思うことなく、しっとりとした日本の古典を読む気分を
十分に味わえます。


「絵本 桜の森の満開の下」  坂口安吾  福田庄助・絵  審美社
坂口安吾の「桜の森の満開の下」を絵本にしたものです。
表紙絵がないのが残念です。この物語が絵本にあると考えると、まず思い浮かべるのが、
満開の桜の花がはらはらと散っている桜色のページです。でも、この絵本は、墨絵で
描かれています。最初は、何だ墨絵か、と思います。でも、やはり読み進むうちに、
墨絵で良いのだと、納得します。坂口安吾の物語が、すでに十分に美しくそれを絵に
する事は、写実的に無理です。

あとがきに、奥野健男氏が書いています。
「色を使わず、墨絵にしたところも桜の花の美しさ、血の色の鮮やかさ、女の美しさ、
醜さを、観る人々の豊かな想像にゆだねたことによって成功している。」
あとがきによりますと、三船敏郎など多くの映画人が、映像化しようとしましたが、
桜の美しさまでは出せても、怖ろしさが出ないということで、成功したものはないと
いうことです。

墨絵といっても、写実的ではなく、心象風景のような絵で、墨をぼかしている、
ぼかし具合などが、「耽美」という言葉を、思い起こさせます。
想像の余地が残されているということが、どれほど美しい情景を見ることが
できるかという見本です。

本来、坂口安吾は一遍の小説として、絵を必要としない文章を書いたわけですが、
この絵本は、この挿絵を足した事によって、さらに坂口安吾の世界を広げたと
思います。小説を絵本にするには、難しい面もあるのですが、成功しています。

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