六段  ウエンデーラ

変わった名前である。子供の時暮らしていた地域に
あった土地の名前だ。たぶん、上の平とか、上の台地とかの
意味だと思う。実際、川向こうの小高い丘の上の土地を指していた。

変わっていたのは、名前だけでなく一面の畑の中に、ある物が、
たくさん落ちていたことだ。ある物、それは縄文土器のかけら。
畑の中を探すまでも無く、いくらでも落ちていた。

子どもの頃、友達(といっても男の子だったような気がする、)に、
教えてもらって、拾った。机の中にしまって置いたような気がするが、
どこにいったのだろう。中学生になった頃には、持っていなかった。

記憶が不確かだが、縄文時代の竪穴式住居も復元されていたような、
いなかったような・・・・。
まだ、学校で歴史の勉強もしていないくらいの年齢で、土器を拾って
遊んでいたのだ。復元住居など、興味も無かったろう。
ただ、昔の人の土器のかけらであることは、知っていたから、
拾っていた。何となく、昔の物を持っていることが、すごい事の
ような気がして。

ウエンデーラは、住んでいた家から良く見えたが、川向こうのため、
行くには幹線道路に出て、大きくまがりこまねばならなかった。
もっとも、川といっても小さな川で、子どもが渡ったとしても、
流されることはなかったろう。ただ、向こう側が崖のため、
這い上がることができないのだ。

ちょっと、地域が離れた友達のところへ行く、近道(と言っても、
山越えだが、子どもにとっては)だった。
一面の麦畑で、青い麦の穂が風に揺れていた。大地は乾ききっていて、
白っぽいさらさらの土だった。
そこに、土と同じ色をした土器のかけらが落ちていた。

後年、私は、歴史を勉強した。子供の時の記憶がそうさせた理由では、
なさそうだ。なぜなら、私は、同じく古い時代でも、古代と呼ばれる
時代の、文献史学だったから。考古学には近づかなかった。

だが、一応の興味はある。
あの、ウエンデーラは高台、下に川、さらに広がる草原、まさに縄文時代の
人の住む条件にぴったりだ。
今、どうなっているのだろう。行ってみたい。今なら、掲示された看板も
食い入るように読む。ああ、子ども時代にもったいないことをした。
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七段  ノスタルジー

最近、スマップが歌う、NTT東日本の光のCMが、懐かしい。
聞こえてくると、ふっと気持ちが引き寄せられる。ノスタルジー。
こういう気持ちをいうのだろうか。

どうも、最近、そんなことが多い。TVから聞こえてくる歌、音、
声、子ども時代のことが思い起こされて、懐かしい、しみじみした
心持になる。
年を取ったのだ。単にそういうことだ。人はこうやって、年を取って
行くのだろう。

何時の間に、こんなに年を取ったのだろうか。ノスタルジーという
言葉を実際に使うほど。
世間では、若い世代からは年寄り扱いをされ、年寄り世代からは、
若いと言われる年齢だ。でも、実際、若くは無い、階段を上れば
息が切れるし、集中力は低下するし、目は見えないし。

こんなことをいうから、年寄りは嫌いだった。はずである。
それが今や、私自身に降りかかってきた。くわばら、くわばら。

じゃ、振り返らずに前だけ見るか、いや、私はやっぱり、後も見たい。
でも、帰りたいわけじゃない。何時の頃からか、子ども時代に戻りたいと
思わなくなった。あの、元気が鬱しい。今の自分で充分になったのだ。
こんなことを思う年齢が、ノスタルジーを感じるのかもしれない。

後には何があるのだろう。
悔いと、若気のいたりの恥ずかしさ、しかない。
本当に・・・?

楽しかったこともたくさんある。優しさもある。怖かったことも、
痛かったことも、そんなこんなが、ノスタルジーという気持ちを
起こさせるのだろうか。

でも、悪くない。何となくあまやかで、ほろ苦くて、胸の辺りが
かすかにうずく感じ。

その瞬間、ホッとしてしばし手を休める。
胸の奥底から湧き上がる感覚に漂いながら、時間を遡る。

今日もまた、どこからともなく、懐かしい音が聞こえてくる。
きっと、同じ時代を生きてきた人が、プロデュースしているに違いない。
同じ時代を生きてきた人、こらからも同じ時間を共有していく。

本当は、年を取る話を書くつもりではなかった。なぜだろう、書いてしまった。
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